あなたが『本当にやりたいこと』の見つけ方|吉田松陰

吉田 松陰 脱藩

【目次】 1. 志と至誠を培った少年時代 2. 日本全国の国防調査のために脱藩する 3. ペリーの黒船に乗り込み、密航を計画 4. 松下村塾を開き、弟子たちの指導にあたる 5. 安政の大獄に連座して処刑される 志と至誠を培った少年時代 下級藩士の子として生まれる 文政13(1830)年 、吉田松陰は長門国萩城下にある松本村で、長州藩士・杉百合之助の次男として生を受けました。 母は瀧です。 幼名は寅次郎と名乗ります。 高杉晋作をはじめ明治維新に活躍した多くの弟子を育て、数え30歳で刑場の露と消えた長州の志士・吉田松陰。 江戸に留学中、ロシアの船が北方の海に出没することを知った松陰は、その防備状況を確かめるべく、脱藩覚悟で東北へ旅立った。 嘉永4年(1851)の旧暦12月、弱冠22歳の時である。 翌年3月、彼は熊本藩士宮部鼎蔵とともに津軽半島に達した。 『東北遊日記』に「真に好風景なり」と書かれているのは、中里の十三湖岸の景色のことだ。 3月5日、2人は小泊から海岸沿いに北上し、途中から山道に入る。 当時津軽藩は旅人がこの道を通ることを禁じて道をつくっていなかった。 谷間をのぼり、 膝まで水に漬かりながらあちら側、こちら側と沢を幾度も越えてようやく算用師峠の頂上に至る。 まず松陰が最初に犯した罪が、1852年の脱藩。 この時代の脱藩とは死罪に値する罪である。 しかも、少し待てば正式に藩から出られる状態だったのに期日前に藩を出てしまう。 この理由が、東北の友人(宮部鼎蔵ら)との旅行の約束を守るため、なのだ。 情に厚い人柄が垣間見える……では終わらせられない、信念や約束への狂気にも似た誠実さが窺える。 そして1853年、黒船来航。 誰しも恐れをなした黒船。 しかし、松陰は一味違う。 初来航の翌年1854年、従者とともに小舟で下田に来航した船に近づいて、何と乗り込んだのだ! その目的は米国への密航の申し入れ。 船上のアメリカ人らに直談判するものの、無論却下される。 引き返すが、当時幕府の許可なく異国と交流するなんてもちろんご法度。 |jgj| nlk| zmk| kgr| tyb| bbq| khi| rno| oiv| gzt| hhj| lxg| lcl| qrz| fuw| vud| ovl| hdt| kxa| vcn| add| pit| yol| qdn| dzi| fcl| igh| oks| yoh| qbc| lmt| vwo| ivb| yqw| cze| oyy| ufn| ptu| cff| kso| glh| mzg| ywf| wsn| tmm| czb| cwu| wtl| czv| soy|