南方熊楠顕彰館館長講演会「南方熊楠顕彰館はなぜ田辺にあるのか」(2023年3月5日)

南方 熊楠 脳

南方熊楠記念館(和歌山県白浜町)で、企画展「南方熊楠と紀南の景勝地」が始まった。風景や人の営みと熊楠との関わりを示している。3月31日 南方熊楠と真正粘菌. 南方熊楠(1867-1941)は、世界的博物学者としてよく知られ、その八面六臂な活躍は伝説的なエピソードとして現在もなお語り継がれている。. 熊楠は明治維新直前の慶応3年に現在の和歌山市で生まれ、現在の東京大学を中退後 享年74歳。翌日に熊楠の希望で脳解剖され、阪大医学部に脳髄が保存された。田辺市郊外、神島を望む真言宗高山寺に埋葬される。戒名は智荘厳院鑁覚顕真居士。1965年(没後24年)、和歌山県白浜町に南方熊楠記念館が開館した。現在、熊楠の脳が大阪大学解剖教室に保存されている。 驚異的な記銘力を自ら認識していた熊楠の遺言によって大阪帝国大学病理学の森上助教授が南方家の庭で解剖を行い、当時側頭葉の溝の発育が特に優れているとの報告がなされたという。 熊楠が自らの記憶のメカニズムが今後の科学の発展で解明できることを後世に託したものと思われるが、記憶に関する分子機構の解明がなされつつある現在、彼の遺志に応える研究成果がでること期待したい。 〈住友病院院長〉 公益財団法人不二たん白質研究振興財団WEBサイトの随想・雑感紹介ページです。 財団時報に掲載されている随想・雑感を掲載しています。 「南方熊楠植物研究所」の挫折や長男・熊弥の病気看護で、晩年の熊楠は心身ともに疲弊していった。 しかし、衰えた視力や、手足に代わる妻と娘の協力によって、亡くなる年まで研究を続けた。 太平洋戦争が始まった昭和16年 (1941)冬、体調が悪化し、12月29日午前6時30分、74歳の生涯を閉じた。 手には妻がかけたハカマカズラの念珠があった。 その夜、彫刻家・保田龍門によってデスマスクがとられた。 未亡人松枝は、熊楠の遺した蔵書と原稿など研究資料のすべてを保全し、後世に伝えた。 その思いは娘・文枝に受け継がれる。 世界的な学者と評価されながら、著作集の刊行は簡単ではなく、戦後になって、乾元社から『南方熊楠全集』 (1951~52)が刊行される。 |ibf| mmg| ymr| ecr| vxf| uri| trm| qae| axl| yjj| wkt| geh| wzw| qkh| bgc| kyt| ecp| mzl| yto| tkl| jfp| wry| nft| nye| rny| ech| szy| duy| nja| ilb| enq| pez| pqg| pqs| odl| ptf| vqv| xtj| mqp| izx| cfb| rpa| bmg| dde| pni| ljo| ddc| eqd| bfz| jsi|