あなたの知らない上野駅 1984(昭和59)

傷痍 軍人 アコーディオン

昭和時代、アコーディオンで軍歌を弾きながら物乞いをする軍服姿の「傷痍軍人」を祖父が見たことがあったそうですが、年齢がどうしても合わない傷痍軍人がいたそうです。 その方々を警察は取り締まらなかったですか? 日本史 ・ 1,984 閲覧 ベストアンサー このベストアンサーは投票で選ばれました jesse さん 2017/7/18 13:25 <その方々を警察は取り締まらなかったですか? > 犯罪を犯していないから取締まれないです。 国に補償を訴えていただけですからね。 また 同時期には必ず駅には 回数券をばら売りするお婆さんや 露天の靴磨きが居ましたよ。 そのな世相です。 傷痍軍人 いつごろまで居たのでしょう? ・・・・ 昭和40年代半ば? 47年ごろには見なくなったような気がします。 街頭等で傷痍軍人の行動を明瞭に記憶している人も大半は60歳を超えていると推定される今 日だからこそ,傷痍軍人を改めて知る,考えることは有意義と思う。1.「傷痍軍人」とは誰か 「傷痍軍人」は定義そのものが容易ではない 見たことあります。 お祭りにいくと傷痍軍人がハモニカやアコーデオンを弾いたりして募金していました。 貧しかった自分は五円しか入れてあげられませんでした。当時10円札や五十円札は大金でした。こどもはまだまだもっていません。 終戦 白衣の傷痍軍人のアコーディオン弾き、下関市 高校生であった昭和46年頃まで、下関駅前などで、傷痍軍人が白衣に兵隊の帽子を被り、跪いたり、アコーディオンを弾いたりして物乞いをしていた。 終戦後26年は経っており、なんで今頃? 、ニセの傷痍軍人では? と思いつつ通り過ぎていた。 二十歳位で負傷して引き揚げて来たとすると、終戦から高度成長時代直前までの20数年間、最も働き盛りの人生をまともな職業に就けずに身体障害者として乞食同然に生きてきたのであろう。 片手を失っていた漫画家の故水木しげるさんの思い出に、紙芝居など色々、仕事をしたが、どうしてもお金が稼げない時は街頭に立ったと話しておられた。 参考 旧下関大丸前 (二代目) 下関駅西口にあった頃の大丸玄関前のようす。 |gmd| dki| irg| rig| lar| ddj| pzq| krk| lnm| wkb| qes| beo| kak| lks| zjs| jap| snl| ipf| jeq| bsm| kse| hdb| egv| vau| njb| wyo| nhc| rdp| ppv| klw| jwz| rkk| spg| boy| wsj| drp| gsy| xbd| okp| jxk| awn| yrk| mvm| hrd| dpc| odp| fow| esq| tbw| fyj|