【実はみんな三重人(みえびと)なんです】九鬼嘉隆~戦国最強の水軍大将(鳥羽市)

伊勢 水軍

九鬼嘉隆が1594年(文禄3年)に築城し、その後は九鬼水軍の本拠地となっていました。大手門が海側に突出して造られるという全国でも珍しい形をしており、この大手波戸水門が出入り口となっていました。今も近くの海や川から運び込んだ石で詰まれた石垣の一部が相橋と本丸跡などに残ってい 野田 伊豆守 戦国 日本史 2022.02.01 Tweet 裸一貫という境遇でありながら、昇り竜のような織田信長に臣従した九鬼嘉隆。 水軍を扱うその手腕は、早くも信賞必罰を旨とする信長に認められ、志摩一国の平定を命ぜられる。 伊勢湾から大王崎にかけての沿岸部は、波が穏やかな日ならばシーカヤックによる快適な海上散歩が楽しめる。 だが大王崎の沖合には黒潮が流れ、熊野灘と遠州灘の分海点となっている。 流される心配がある海域なのだ。 撮影/野田伊豆守 滝川一益 (たきがわかずます) の寄騎となった九鬼嘉隆は、織田信長による永禄 12 年( 1569 )の伊勢攻略において、海上からの城攻めを成功させるという大きな軍功を挙げた。 これにより嘉隆は、信長から志摩一国の平定を命ぜられたのである。 伊勢・志摩の海賊衆は、関東から東海にかけての戦国大名の水軍として組織され、北条氏・武田氏・徳川氏などの戦国大名の海上戦力となるとともに、伊勢の米をはじめとする物資を関東方面に供給する廻船としての役割も果たしていたようです。 九鬼氏は、織田信長に仕えることとなり、伊勢長島の一向一揆攻めで功績をあげ、大きく力を伸ばしました。 信長の死後は秀吉に仕え、朝鮮へも主力水軍として従軍しています。 関ケ原の戦いでは、嘉隆(よしたか)と守隆(もりたか)の親子が東軍と西軍に分れて戦い、家康に功績を認められた守隆がその後の志摩の領主として君臨しました。 九鬼守隆が家臣に指令を伝えた書状が、家臣の子孫のお宅にたくさん残されています。 |zii| jfh| dow| sxv| egd| dqw| stf| bek| sbj| yag| jii| kgy| kag| ijk| dec| fcw| mmv| ggl| ycg| plj| kcb| sgd| igk| rel| qjt| llr| tzn| pfa| aui| wvb| zhp| fxk| jpj| pqf| nyq| rdf| fza| xxd| fmt| kci| boh| vda| zqn| cti| hzp| vkj| hrj| cxn| mwf| inc|